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【子供のころから絵を描くことが大好きだった文化系女子、でもいつしか筋トレに目覚めた鶴田貴子です】

鶴田 貴子(ツルタ タカコ)

・1968年2月13日生まれ(申年、みずがめ座)血液型O型

・東京都足立区在住;子供のころからずっと地元の足立在住です。

・家族は夫、子供2人(社会人、大学生)、実母

職業・属性;保険会社の営業、ボディービルダー、翻訳家、トレーナー

多分日本で唯一、女性でボディービルをしている保険営業だと思います。保険の仕組み、身体の仕組み、なんでも仕組みを分解してとことん考えることが好きです。とことん分解、分析した結果を人に伝えたい、そんな気持ちで日々精進しています。

【スポーツ歴】
小学校入学当時は水に顔をつけられないほどのカナヅチでした。走ってもクラスでビリ。

こんな状態ではいじめにあってしまうのではないかと心配した母が金町スイミングスクールに私を入れたんです。しかし、入部当初は先生に怒られ、水ばっかり飲んでしまい毎回泣いていたのを覚えています。傍から見ると弱々しい私ですが根は負けず嫌いで、絶対誰よりも泳げるようになってやる、と闘志を燃やしていました。ところが、12メートル泳ぐのに1年もかかったというダメダメぶり。しかし、それでも諦めず、3年後には選手育成クラスに所属できるようになりました。夏休みは毎日母にお弁当を作ってもらい、小学校のプールで朝から夕方まで友人と泳いでいました。当時はのんびりとした時代で、小学校が毎日水泳教室を行っていて、体育の先生が毎日指導をしてくれました。先生はたまに自分のお子さんも学校に連れてきて浮き輪をつけてプールで遊ばせていました。今でいう家族サービスですね。そんな小学校生活を送っていたおかげで、6年生の時に足立区水泳大会で自由形第3位になれました。

当然、中学校も水泳部に所属しようと考えていましたが、中学も高校も水泳部が全く盛んではありませんでした。飽きっぽい性格だったからでしょう。水泳もまあこれくらいでいいか、と思って何の未練もなく辞めてしまいました。そして、その頃大好きだった日本画を描くために、中学は帰宅部をきめこみ、高校は美術部、地学部に所属して文化系女子の道を進みました。

その後、大学入学とともにまた移り気な性格が出てきてしまいました。体育会やサークルの新人歓迎の期間中に「ねえ、ダンスしない?」と声をかけてきたイケメンの先輩にフラフラとついて行ってしまったことから、体育会競技ダンス部に入部しました。ダンスがしたいというよりもきれいな衣装を着たいという不純な気持ちのが強かった記憶があります。しかし、いろいろなことがあって、学生の枠を飛び越えてプロの試合にも出させていただくという幸運にも恵まれました。ダンスの世界は当時の私の眼には大人の世界のように映りました。そして厳しい世界です。よくよく考えた挙句、プロダンサーより大学卒業を選び、それから14年後までダンスシューズを履くことはありませんでした。

その後は就職、結婚、出産、離婚と続きスポーツどころではなくなってしまいました。

息子も小さかった時の私と同じようにとても運動ができなかったので、剣道を始めさせることにしました。息子と私と違うところは闘志の有無で、息子はいつも剣道に行くのは嫌だとごねていました。一大決心をして私も息子と一緒に35歳のときに剣道デビューをすることにしました。周囲の優しい方々の助けもあり、息子も剣道を続けることができ、私も1級まで取らせていただきました。

その後、14年間やめていたソシアルダンスを自分へのご褒美として再開しました。運動を再開したおかげで若いころのスリムな体系に戻りました。

ところが、息子が剣道を卒部して自分も剣道をやめたら、中年太りが加速度的に進み、体脂肪率が30%を超えてしまいました。若いころは165センチ48キロと超スリムだったはずなのに。。。もう45歳だから、と少し諦めて楽な方に流れていました。

しかし、彼(現在の夫)に「お腹がポニョ」と言われてしまい、心底がっかりしてしまいました。その一方で若いころの闘志がメラメラと燃えてきて、「絶対ポニョなんて言わせない!」と強く思い、彼とともに筋トレをすることを決意しました。

【筋トレ】
忙しい彼を初心者の自分に付き合わせていられないので、一人で近所の体育館に通うことにしました。
そこには「お腹引っ込めプログラム」というひたすら15分間腹筋をするというショートプログラムがあり、1か月後にはお腹の質感が変わりました。引き続きこのプログラムに参加しようとしたら、人気が出てきてあまりの人の多さにスタジオに入れない日が続きました。

仕方がないので、ジムのマシンでトレーニングを始めました。週3回来ているとだんだん重い重量でもできるようになってきました。意外と自分って力持ちなんだ、とちょっと感動するようになりました。多分その頃はフォームも正しくなかっただろうし、間違いだらけのトレーニングだったと思うんですけど、それでも自分の中では奇妙に楽しかったんです。それからトレーニングにはまり、マシントレーニングをはじめ筋トレ雑誌を読みながらフリーウエイトにも挑戦しました。初めてフリーウエイトコーナーに立ち入ったときはとても緊張しました。周りはみんなガタイのいい男性ばかりだったからです。そんな中で果敢にベンチプレスを始めたのですが、20キロのシャフトすら挙げることができませんでした。トレーナーさんに10キロのシャフトを持ってきてもらってのスタートです。

それから1年後のある日、会社の上司にゴールドジムに連れて行ってもらったところ、たくさんのマシンやダンベルに圧倒され自分も入会しようと決意しました。私が通っていたのは会社近くのゴールドジムイースト、筋肉の聖地です。そこにはマッチョな人たちが集っていました。初めて街の体育館のフリーウエイトコーナーに立ち入った時よりも激しい緊張が走りました。でも、温厚なマッチョの人たちが私の間違いだらけのトレーニングをやさしく正してくれたんです。

こうして、親切にアドバイスをしてくださるトレーナーさんや気さくに声をかけてくれる先輩トレイニーのおかげで、楽しくトレーニングを続けています。今では王子フィットネス&ジムとゴールドジム北千住をベースに毎日トレーニングをしています。

3年前からは健康美、ボディフィットネスの大会にも参加しています。コーチにもつかず、一人で試行錯誤で大会に臨んでいましたが、記録は下記の通りイマイチ残念な結果でした。どうしても表彰台の一番高いところに上りたいと思う気持ちが強くなってきて、半年前からコーチに指導をしてもらっています。天と地ほども違いますよ。私にはもう一人仕事の上での師匠がいますが、その道を究めた人からのアドバイスにはブレがありません。未熟な自分にはブレがあるんです。師匠とは未熟者のブレを気づかせ、正す人なんだと思いますが、二人の師匠に出会えたのは人生の転機でした。
今後はフィジークにカテゴリーを変えて大会に参加する予定です。

【大会の記録】
2015年 ミス健康美21 163㎝超級 6位
2016年 ミス健康美21 163㎝超級 6位
東京クラス別ボディフィットネス 163㎝超級 4位
2017年 ミス健康美21 163㎝超級 3位

たくさんの書籍や雑誌を読みながら筋トレや栄養学やサプリについても学んでいます。
身体が変わる喜び、心まで元気になる喜びを沢山の人と共有したいです。

【学校】

綾瀬幼稚園(たけ組、まつ組)

足立区立綾瀬小学校(図画工作部、漫画クラブ)

足立区立東綾瀬中学校(ペンフレンドクラブ)

都立上野高校(地学部、美術部)

上智大学 文学部フランス文学科(体育会競技ダンス部)

大学在学中にパリソルボンヌ大学、南仏ロワイヤンでフランス語を勉強しました。

【職歴】バブル期真っ最中の大学4年生の8月上旬、のんびりした性格のため就職活動に出遅れて慌てて大学の就職指導部に駆け込み、担当の指導教官に怒られながらも「フランス語ができるなら」と紹介してもらった専門商社服部セイコー株式会社に就職しました。

海外事業関連の部門で秘書の仕事、財務分析等の業務を4年間経験しました。当時はいい時代でしたよ。お茶入れたり、コピー取ったり、向かいの席のおぢさん社員のたばこを買いに行くことが仕事の一つだったりするんですから。でも私の直属の上司が「これからは女性も男性並みに仕事をする時代だから、私は君を厳しく育てる」と言って指導してくれたのでした。このまま立派なキャリアを築けると思いきや、再び私の前にイケメンが登場しました。イケメンにプロポーズされ、結婚・出産のため退職し、私のキャリアはここで華々しく幕を閉じたかと思われました。

しかし、幸せも長くは続かず、離婚のため仕事に再挑戦することになりました。再就職はなかなか厳しくて、当時は二人も子供を連れた33歳の女性を雇ってくれるような会社はありませんでした。しかし、外資系なら年齢もあまり関係ないし、実力主義だから子供がいても何の問題もないと聞き、Wordで凝った履歴書をつくり外資系の会社の社長や人事部宛に送りました。その間に簿記・英文会計の資格を独学で取得して、外資系商社(テンダープラスジャパン株式会社、コヒレントジャパン株式会社)で経理担当として15年間働きました。

会社に内緒でこっそり翻訳の仕事も手掛け、代表作は2013年に共訳出版した「親も子もしあわせになれる子育てのヒント100」です(旧姓の音喜多貴子で書いています)。

しかし、会社生活でも幸せはそう長く続きませんでした。会社の合併で組織が大きく変わる中、ひどいパワハラを受けるようになったのです。思い出すのも嫌なレベルのパワハラでしたが1年半我慢しました。全ては子供のためです。しかし、パワハラを受けていたのは私だけではなく、会社の中に複数いたことが分かりました。それが分かった途端、このままこの会社で仕事を続けることに何の意味もないことが分かりました。もう迷いはありませんでした。長女の就職を機に、以前から興味のあった営業職に転職することを決意して会社を辞めました。保険営業に転職してそれほど長い時間がたったわけではありませんが、すでに多くの経験、多くの方と出会う機会に恵まれました。毎日が愉しく、感謝しかありません。トレーニングをしながら、仕事の活動をしながら多くの人とお友達になれる嬉しさを実感しています。そんな私にも保険人間としての目標があります。それは毎日の生活ではあまり考えないけど、ある日、必要になったときのために一人一人に最善の保険を調合すること。必要となったときのことを大切に、影のように準備をする仕事人でありたいと思います。

【栄養学・料理】最初の結婚当初、料理はカレーと酢豚と目玉焼きしか作れませんでした。しばらく料理と格闘していました。しかし、子供が生まれて家族の食事について改めて考えるようになりました。子供の離乳食が始まるころに足立区主催の離乳食の講座に参加したんです。私の作った離乳食を子供が美味しそうに食べる姿を見てから料理に対する考え方が大きく変わりました。身の丈にあった簡単な料理からスタートしようと、NHKのテキストを使って学ぶようになりました。(今はクックパットがあるので料理も随分と気軽に作れる環境になりましたね!)今では体づくりのためのスポーツ栄養学も研究し続け、ボディビル大会に向けて減量期に合わせた食事も管理しています。

【心技体 - 絵を描く、書、絵画鑑賞】

絵筆、筆を持ちたまに絵や書を楽しみながら心が休養ができるようにしています。子供のころから大学生になるまでは毎日筆を握っていました。子供の頃の夢は画家でした。高校三年生のときに画家の夢は諦めてしまいましたが、夢をあきらめてからも表現者であり続けたと思います。表現することや美を探求することが好きすぎて、ついに自分の肉体改造することでアートするようになりました。